|
以上、それぞれの助詞に着目しつつ「世間」のスクリプトについて考察した。最後に全てのスクリプト相互の辻褄を合わせることにより、人々にとっての「世間」は以下の三つの命題に集約されることになる。
@「世間は人を裁く」
「世間」というものは単なる人の集合ではなく、ある種の規範を持った裁定者のような存在といえる。これは、「は・が」における「許す・認める」といった動詞群から、また他の助詞において見出された、人々からの働きかけを受け付けない没交渉なものという特徴づけから導かれる。「世間」は、現象や事柄に対する価値判断を迫られるような場面では、その存在が大きな力を持って出現して来るものだと考えられる。
また、司馬遼太郎による「世間=神」という見方(「世間とは西洋社会における神のような存在である」)についても考察を加えたい。確かに、人々にとっての規範となり、人々を裁くものとして、「世間」を「神」になぞらえて捉えることも出来るかも知れない。しかしこれまで見たように、「世間」は人々に対して情動的な反応を行うところが大きな特徴となっている。この点で、「世間」を西洋社会における「神」とはまた違う固有の性質を持っているといえる。
A「社会」は変えられるが「世間」は変えられない
もう一つは、「世間は変えられない」ものであるという点である。助詞「を」「に」において、「世間」が具体的な働きかけの対象や宛て先にならないことから、世間は交渉相手にならない、つまり世間とは「語り合えず、話し合えない」ということが分かる。「世間」は、人々によって手を加え変革していく対象としては捉えられてないのである。
またこの特徴は、「世間」「社会」の複合語に着目しても導き出すことが出来る。「世間」の複合語に「〜世間(×高齢化世間・情報化世間)」のバリエーションがないのに対して、「社会」では「高齢化社会・情報化社会」など様々なバリエーションがある。これは「社会」が変化の可能性を持っていることを含意している。「世間」と「社会」は類似するところがあり、その違いを述べることは必ずしも容易ではないが、「人々」が「手を加え」「変える」ことが出来るか否かという点で、両者は大きく異なっていることが分かる。
B「世間に話者は参画しない」
そして三つ目は、「世間は自分(話者)を含まない」ものであるという点である。これは助詞「に」における「世間」は話者が参画する場所ではないという点、また「で」における「世間」の視点は話者とは別であるという点から導かれる。
「世間」に話者が参画しないという点は、人々が「世間」に手を加え、変革出来るかどうかにも関わっている。また「世間」と「話者」の視点の差異もやはり、「話者」が世間に含まれ参画してはいないことを示している。さらにこの「世間」の視点は、構成員不明の主体が担うものである。これらは@で見た規範としての「世間」にも関わっているだろう。「世間」に対し人は自ら積極的に働きかけることは出来ない一方で、「世間」は不特定の主体による視点から、人を裁き、人に干渉してくるのである。
以上三つの命題を総括として取り上げた。これはさらに、日本社会における「公共性」の問題にも発展的に繋げていくことが出来る。
これまで見たように、われわれは「社会」の中だけでなく「世間」の中でも生きていることが分かる。だが「世間」は、人々が参画し、手を加えて変革するものではなく、人々の積極的な働きかけを受け付けないものである。その一方で、「世間」の側からは、時には情動的に人々を裁き、評価や判断を行い、人々に干渉してくる。
このことは、個人個人が協力し合うことによって「社会」を形成していくという、「公共性」に関わる行動を為す上で、暗黙の阻害要因となる可能性がある。人々の側からはなかなか変革しづらい価値や規範が、知らず知らずのうちに、われわれの開かれた行為を狭めているかもしれないのである。われわれが向き合っている「世間」とは何か、それを知ることは、自らの「社会」を積極的に変革し、形成していく可能性を開くことに繋がっているといえよう。
|